1. 基本

◇手紙で重要なのは気持ちなので、書き方は原則自由。形式面の細かい点を除けば、こうしないといけないというのはない。例えば「!」なんかも間柄によっては別に使用可。

◇ただ表現が悪くて肝心の気持ちが伝わらないと問題。誤読される、相手の気分を害するなんてことは避けたい。

◇これを送る客との間柄や送る手段(メールかLINEか)が判らないので、①ほぼ初対面の客に②メールで送る場合を想定してコメントしていく。実際の間柄や手段に応じて適宜修正してくれい。


2. コメントその一

こんにちは!○○鍼灸治療院の△△です。先日お話した光フェイシャルの件ですが、ご予約をお取りしたいのでご希望の日時を教えていただけますでしょうか。

 

(1) まず手紙は名宛人の氏名を書くことから始めるのがベター。「○○様」と文頭につける。LINEだと要らない。
(2) 「ご予約をお取りしたい」って既に予約をすることが前提になっているが、確かに約束はしているか。していない場合、ここでムッとされるか、返信しづらくなる。その場合は「もしご予約いただけるようであれば~」的な流れにする。
(3) 「教えていただけますでしょうか」はやや命令口調。「教えていただければ幸いです」等。

3. コメントその二

こんにちは!○○鍼灸治療院の△△です。先日お話した光フェイシャルの件でご連絡致しました。来月の16日ですが、10:00~11:00の時間でお願いしたいのですが如何でしょうか。ご連絡お待ちしております。

また、サロンへのアクセス方法についてですが、下記のアドレスに詳しく記載されていますのでご覧下さい。


(1)「10:00~11:00の時間でお願いしたい」について。客との間柄や、店の客に対する姿勢にもよるが、店の方から時間指定するのは人によってはウザがられそう。「10:00~11:00であれば空いておりますがいかがでしょうか」的なスタンスで。ただし、既に話が進んでて、あっちの方から時間指定してくれるように頼んできていた場合なんかはこの限りではない。

 『戦争と平和』第2部第3篇を読んだ。

 

 本作は今のところ、くそおもしろい回→つまらん回→くそおもしろい回→つまらん回...と展開しているのだが、今回はそのうちのつまらん回に当たる。

 

 話としては、ヒロインの1人であるナターシャを巡る、3人の男たちの悲喜こもごもが描かれる。

 まず出世の階段をひた走るボリスが、ナターシャと両想いになりつつも、こいつと結婚したら出世ができんな・・・、と思って身を引く。

 他方、第2のナポレオンになる野望を打ち砕かれて、生きる意味を見失っていたアンドレイは、生命力あふれるナターシャに惚れて、婚約にこぎつける。

 離婚騒動と所属するフリーメイソンへの疑問から、何だか鬱気味のピエールは、アンドレイからナターシャに求婚するんだという告白をされて、何だかもやもやする。

 

 こっからアンドレイはナターシャに裏切られてぼろぼろになり、ピエールはナターシャに秘めた想いを告白することになるらしいので、次回に期待。

 今日は親戚のえなちゃん(5歳)が来た。2人で遊んでいて思ったことが、サリンジャーライ麦畑でつかまえて』で描かれていることとそっくりだったので、それについて書く。

 

 この小説は、17歳のホールデン少年が、拝金主義・消費主義・資本主義(と権威主義)のはびこるニューヨークを放浪する話だ。

 ホールデン以外の登場人物の多くは拝金主義・消費主義・資本主義の思想に染まっており、ホールデン少年はこれをボロクソにけなしながら街を練り歩く。

 

「車のことを見てみろよ」と僕は言った。いとも静かな声でね。「たいていの人がそうじゃないか、車にまるで夢中じゃないか。小さな掻き傷でもつけやしないかって、おろおろしてやがる。そして話すことといえば、いつも、1ガロンで何マイル走れるかだ。真新しい車を手に入れれば、すぐにもう、そいつをもっと新しい奴に買い換えることを考える。僕は古い車だって好きじゃないよ。車って奴は興味すら起きないね。」

 

「いつか、君、男の学校へ行ってみるといい」と、僕は言った。「そのうち、ためしにやってごらんよ。インチキ野郎でいっぱいだから。やることといったら、将来キャディラックが買えるような身分になるために物をおぼえようというんで勉強するだけなんだ。そうして、もしもフットボールのチームが負けたら、残念でたまらんというふりを見せなきゃなんない。やることといったら、1日じゅう、女の子と酒とセックスの話、おまけにみんながいやったらしい仲間を作ってかたまってやがんだ。バスケットのチームの奴らがかたまる。カトリックの連中がかたまる。知性派の連中がかたまる。ブリッジをやる奴らがかたまる。月間推薦図書クラブに入ってる連中までが自分たちだけでかたまってやがんだ。」

 

 しかしこの小説で異彩を放つ存在が、ホールデンの妹のフィービーだ。彼女は特に飛びぬけて秀でたところがあるわけではないが、拝金主義・消費主義・資本主義に染まっていない点で、作中際立つ存在となっている。

 ホールデンはフィービーを愛している。フィービーに将来なりたいものを問われてホールデンは以下のように答える。

 

「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしてるとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない──誰もって大人はだよ──僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ──つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっからか、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。1日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げてることは知ってるけどさ」

 

 ここで、「あぶない崖」の下にあるのは拝金主義・消費主義・資本主義のはびこる世界である。「崖から転がり落ち」るとは子供たちが拝金主義・消費主義・資本主義の思想に染まってしまうことである。

 つまり、ホールデンは、フィービーのような純粋な子が、拝金主義・消費主義・資本主義の思想に染まって歪んでいってしまうことを防ぎたいと言っているのだ。

 

 えなちゃんはフィービーと同様、まだ拝金主義・消費主義・資本主義の思想に染まっていない。しかしえなちゃんの前途は多難だ。

 まず、このままいけばえなちゃんは兄かずきくん(小3)と同様、小学3年生で難関学習塾に放り込まれ、学歴闘争に巻き込まれてしまうだろう。

 しかも周囲の人間の中にきわめて拝金主義的な人物が複数いる。今日の会話にも「有名人の誰々はいくら稼いでるからすごい」といった言説がぽんぽん飛び出していた。

 テレビは消費を煽る番組ばかりだ。いい大学に行ってカネを稼ぎ、大きな家を買い、高い車に乗るのが幸せであると延々喧伝している。

 

 えなちゃんは近い将来、「あぶない崖」を「転がり落ち」るだろう。こんなに悲しいことがあるかと思うが、今はどうしようもない。

◇長崎屋に『戦争と平和』第3巻を買いに行ったら売り切れてた。俺が思ってる以上に今でも読まれてるのかな。
◇しかたなく放置してた『資本論』第8巻を買う。



◇藤丸6階に本屋を発見したので行ってみたら、ラインナップがいびつだった。たくさんの娯楽小説の中に、放置されて色褪せた『日本の下層社会』とかがあって謎。仕入れ適当すぎだろ。
◇前から気になってた伊藤光晴『ケインズ』があったので買う。
マルクスしか読んでないと、マルクス様が絶対みたいになっちゃうので、対抗する考えが欲しかった。ケインズがそうなのかは知らんが。



◇百年記念館の前にポケモンgo勢がいてすごいなと思った。よく考えたら育成は田舎でもできるから、都会でレアポケを捕まえて、地元で育成するのがいいのかしら。夏休み明けに東京で捕まえたポケモンを自慢する高校生とかがいるんだろうか。



◇『戦争と平和』第3巻はアマゾンで買いました。

 トルストイ戦争と平和』第2部第2篇について。

1. 前置き
 前提として、この前の第2部第1篇では、戦争から帰ってきた主人公たちが色々やってストーリーが進む。

・ピエールは、巨乳で美人の奥さんと別居、社交界の笑いものになりつつ、色々悩んでフリーメイソンに加入する。
・アンドレイは、フランス軍から解放されて、帰宅。その時ちょうど奥さんが出産をしていたところで、赤ん坊は無事産まれたが奥さんは死亡。
・ニコライは、両想いのソーニャが他の男に取られそうになって焦る(けど何やかんや理屈をつけて付き合おうとはしない)。一方、一途なソーニャは男の告白を蹴る。男はニコライを逆恨みし、ギャンブルを持ちかけ、大金を巻き上げる。

 3人の話はそれぞれ面白くていい。ニコライ編はいきなりカイジみたくなって笑ったけど。

2. 本題
 その上で、第2部第2編。ここではピエールとアンドレイが久々の再会を果たす。

 2人はこれまで離婚・戦争という苦難を経ているため思想が円熟しており、ここでは両者の思想がぶつかり合う。議題は、(α)人は善悪を判断できるか、(β)幸福とは何か、である。

 

<ピエールの思想>
(1) 神がいる以上、善悪の判断は可能である。それは例えば隣人愛の精神に沿っているか、真理に沿っているかという基準で判断される。
(2) したがって、幸福とは、①他人のために生きること(貧しい人に信仰や援助を与えること)、②真理の獲得を目指すこと(愛、信仰)、である。

 

<アンドレイの思想>
(1) 人は、何が正しくて、何が正しくないかを判断できない。
(2) したがって、幸福とは何かという点についてはっきり言えることは少ない。
 ア. その中でも、とりあえず、悔恨や病気があると不幸であるということは言えそう。
 イ. また、他人のために行動することが幸福だとは言えなさそうだ。なぜなら、自分は名誉(アンドレイの定義によれば、他人のために何かをしてあげて、褒めてもらうこと)のために行動した結果、戦場でひどい目にあったからだ。
(3) したがって、悔恨や病気を避け、自分のために生きること(=自分の人生をできるだけ楽しくすること)こそが幸福であると言える。

 

 この議論を一見して分かるのは、ピエールの思想がすっきりしているのに対し、アンドレイの思想は何やらごちゃごちゃしていることだ。

 

 アンドレイによれば人は善悪を判断できないのだが、そうだとすると何が幸福かということも判断できないはずである。それにもかかわらずアンドレイは「自分のために生きること」が幸福だと断言する。しかしその根拠は理屈として成り立っているかが怪しい*1

 

 そんな調子なので、アンドレイは作中でもピエールにやり込められてしまう。読んでる身からすれば、どうしたんだよアンドレイという感じである。

*1:① 名誉のために行動することは自分のために行動することではないか。② 他人のために生きることが幸福でないとしても、それは自分のために生きることが幸福だということの積極的な根拠にはならない。等。

 岡崎京子『PINK』を読んだ。

 

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 話がけっこう難解なので、分かっていることをまとめる。

 

 本作は、主人公ユミが、消費主義のはびこる東京で、幸福を求めてあがく話だ。後半、ユミの飼うワニがさらわれてバッグにされてしまうのだが、この時点を境に、話は前半後半に分かれる。

 前半では、ユミが果てない物欲と、ペットのワニの食欲(1日10キロの肉を食う)を満たすために、昼のOL業に加えてホテトル嬢(今でいうデリヘル嬢)をやる姿が描かれる。

 

「(ワニにエサをやりながら)よく食うなぁ。オマエが食いしんぼうだから昼間オーエルやってるだけじゃやってけなくて大変だよ」

 

ハルヲ「これがフツーなんだよ。人間みんなTVやポパイに出てくるよーなとこ住んでるワケないじゃん」
ユミ「そーお?なんで?あたしTVみたく暮らしたいし、ananのグラビアみたく暮らしたいな。みんなそうなんじゃないの?」

 

「何かあたしはなんだかすごく悲しくなって、そんなにお金欲しければカラダ売ればいいのに、と思った。やっぱみんな何だかんだいってワガママなくせにガマン強いんだな。王子様なんか待っちゃってさ。あたしなんてダメだな。ガマンできないもん。欲しいもんは欲しくなっちゃうもん。欲しくて欲しくていてもたってもいられなくなっちゃうもん」

 

 しかし果てない物欲を満たすことで得られる「幸福」は、彼女を大して幸せにしない。

 ユミが幸せらしきものを掴むのは、全財産を失った後に貧乏学生ハルヲの安アパートに移ってからである。また、ユミの母親は同じような「幸福」を追った結果自殺している。

 

ユミ「シアワセなんて当然じゃない?お母さんが良く言ってたわ。シアワセじゃなきゃ死んだ方がましだって。」
ハルヲ「お母さんは?」
ユミ「・・・・・・そのとおりに死んだわ。首つり、自分で、パンティストッキングで」

 

 後半、ユミのペットのワニが、対立する義母にさらわれ、ワニ革のバッグにされてしまう。1日10キロの肉を食うワニは物欲の象徴だが、これを失ったことで、ユミは物欲を失い、その手段である仕事にも疑問を持ち出す。

 

「何にも欲しくないし何でもどーでもいいだす(あらどしたんでしょあの物欲のカタマリだったあたしがさ。でもホントなのよ)」

 

「何よこんなクソ面白くもない仕事マジにやってられるワケないじゃん。よくみんなこんなクソみたいなタイクツにたえられるわね。バカみたくゾンビみたく働いてさ信じらんない。みんなワニのエサになっちゃえばいいのよ」*1

 

 物欲を満たすことが幸せだと信じていたユミにとって、物欲を失うことは幸福でないことを自覚することを意味する。それによってユミは病んでしまう。

 

「(あ、始まりそう。あの発作、どうしてあたしはここにいるの?とか、どうしてここに立ってるの?とか、考えだしたら止まらない。何で?何で?何で?どうして?どうして?どうして?わかんないわかんないわかんないわかんない。頭の中がクエスチョンマークだらけになっちゃうのよ。どうしようどうしようどうしようどうしよう。こわいこわいこわいこわい。だれかあたしをたすけておねがいです)」

 

 混乱したユミが望んだ選択肢は、消費社会東京を離れて、南の島に行くことだった*2

 

「ハルヲくん、あたし南の島に行きたい!!もういやこんなワニもいないとこ。大嫌い」

 

 ユミの恋人ハルヲは貧乏学生だが、小説家としての夢をかなえたことで、偶然ユミを南の島に連れて行くことが可能となった*3

 しかし出発直前、ハルヲがホテトル嬢(ユミ)と同棲していることが記者にバレてしまう。ハルヲは記者に追い回された結果、交通事故にあって死んでしまう。

 ラストは空港でハルヲを待つユミの姿で終わる。強烈なバッドエンドだ。

 

 あとがきで作者は、資本主義は「手ごわく手ひどく恐ろしい残酷な怪物のようなもの」だと言うが、「そんなものを・・・脅えるのはカッコ悪い」と言う。「何も恐れずざぶんとダイビングすれば、アラ不思議、ちゃんと泳げるじゃない?・・・メチャクチャなフォームでも」というわけだ。

 ここでの作者の立場は、バブル期の雰囲気を受けてやや楽観的なものとなっている。ユミはオトコの力を借りて「東京」から逃げ出すことなんかせずに、メチャクチャなりに戦っていくべきだったということだろう。傑作。

*1:ちなみに作者はあとがきで、「すべての仕事は売春である」と言っている。ユミにとって、昼間のOL業と夜のホテトル嬢は、どちらも物欲を満たす手段に過ぎない上、どちらもクソみたいな仕事であり、どちらも大差ない。さらに作者は「全ての仕事は愛でもあります」とも言っているのだが、この意味はよく分からない。

*2:この点はモーム『月と6ペンス』ぽい

*3:金ではなく自分のやりたいことをやれば窒息しそうな街を出られるというのはフェルナンド・メイレレスシティ・オブ・ゴッド』と同じテーマだ

 ゴダール女と男のいる舗道』を観た。

 

 内容は悲惨。主人公ナナちゃんは女優志望だが、夢がかなわずくすぶってるうちに、生活苦から街娼として街に立つようになる。

 しかし、そこで出会ったヒモのラウルくんによってチンピラたちに売り飛ばされた上、金の受け渡しのトラブルで起きた銃撃戦に巻き込まれて死亡する、というあらすじ。

 

 ゴダールは難解な映画ばっかり作ってる人で、この映画も観てるだけだとよく分からんシーンが多い。それでも何とか観てられるのは、主人公ナナちゃんを演じるアンナ・カリーナがめちゃくちゃかわいいからだ。

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 かわいい。

 

 テーマはたぶん、冒頭に出てくるモンテーニュの言葉「他人に自己を貸すことは必要だが、自己自身に対してしか自己を与えてはならない」ってことなんだろう。ナナちゃんは、ヒモのラウルくんに自分を自由にさせちゃったから、こんなことになっちゃったよ、ということか。よく分かりません。