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 今日は親戚のえなちゃん(5歳)が来た。2人で遊んでいて思ったことが、サリンジャーライ麦畑でつかまえて』で描かれていることとそっくりだったので、それについて書く。

 

 この小説は、17歳のホールデン少年が、拝金主義・消費主義・資本主義(と権威主義)のはびこるニューヨークを放浪する話だ。

 ホールデン以外の登場人物の多くは拝金主義・消費主義・資本主義の思想に染まっており、ホールデン少年はこれをボロクソにけなしながら街を練り歩く。

 

「車のことを見てみろよ」と僕は言った。いとも静かな声でね。「たいていの人がそうじゃないか、車にまるで夢中じゃないか。小さな掻き傷でもつけやしないかって、おろおろしてやがる。そして話すことといえば、いつも、1ガロンで何マイル走れるかだ。真新しい車を手に入れれば、すぐにもう、そいつをもっと新しい奴に買い換えることを考える。僕は古い車だって好きじゃないよ。車って奴は興味すら起きないね。」

 

「いつか、君、男の学校へ行ってみるといい」と、僕は言った。「そのうち、ためしにやってごらんよ。インチキ野郎でいっぱいだから。やることといったら、将来キャディラックが買えるような身分になるために物をおぼえようというんで勉強するだけなんだ。そうして、もしもフットボールのチームが負けたら、残念でたまらんというふりを見せなきゃなんない。やることといったら、1日じゅう、女の子と酒とセックスの話、おまけにみんながいやったらしい仲間を作ってかたまってやがんだ。バスケットのチームの奴らがかたまる。カトリックの連中がかたまる。知性派の連中がかたまる。ブリッジをやる奴らがかたまる。月間推薦図書クラブに入ってる連中までが自分たちだけでかたまってやがんだ。」

 

 しかしこの小説で異彩を放つ存在が、ホールデンの妹のフィービーだ。彼女は特に飛びぬけて秀でたところがあるわけではないが、拝金主義・消費主義・資本主義に染まっていない点で、作中際立つ存在となっている。

 ホールデンはフィービーを愛している。フィービーに将来なりたいものを問われてホールデンは以下のように答える。

 

「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしてるとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない──誰もって大人はだよ──僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ──つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっからか、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。1日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げてることは知ってるけどさ」

 

 ここで、「あぶない崖」の下にあるのは拝金主義・消費主義・資本主義のはびこる世界である。「崖から転がり落ち」るとは子供たちが拝金主義・消費主義・資本主義の思想に染まってしまうことである。

 つまり、ホールデンは、フィービーのような純粋な子が、拝金主義・消費主義・資本主義の思想に染まって歪んでいってしまうことを防ぎたいと言っているのだ。

 

 えなちゃんはフィービーと同様、まだ拝金主義・消費主義・資本主義の思想に染まっていない。しかしえなちゃんの前途は多難だ。

 まず、このままいけばえなちゃんは兄かずきくん(小3)と同様、小学3年生で難関学習塾に放り込まれ、学歴闘争に巻き込まれてしまうだろう。

 しかも周囲の人間の中にきわめて拝金主義的な人物が複数いる。今日の会話にも「有名人の誰々はいくら稼いでるからすごい」といった言説がぽんぽん飛び出していた。

 テレビは消費を煽る番組ばかりだ。いい大学に行ってカネを稼ぎ、大きな家を買い、高い車に乗るのが幸せであると延々喧伝している。

 

 えなちゃんは近い将来、「あぶない崖」を「転がり落ち」るだろう。こんなに悲しいことがあるかと思うが、今はどうしようもない。