カフカの中・短編のなかでも最もよく知られている『変身』の主人公の悲劇は、この律法にそむいた点にある。有能なセールスマンとして一家の経済的支柱であったグレーゴル・ザムザの善良な脳裡にある日ふと、「家族のためでなかったら、こんなことは、もういっさいおしまいにしたい」という想念がひらめいたとき、たんにそれだけで、彼は褐色の虫に変身してしまったのである。この想念は、「だれにでもよくあるやつ」で、かくべつ異常な想念ではない。しかし、それは、自己の本来性への自覚を意味する。グレーゴルは、家庭の善良な息子であり、社会の模範的な市民であったが、このことは、彼の存在が家族のための、社会のための存在であり、自己自身のための存在でなかったということ、「自己自身に関係するところの関係」であるべき彼の自己が自己以外のものに関係するところの関係に堕してしまっていたということ、自己の本来性から「世間の人」の世界へ頽落してしまっていたということにほかならない。自己の本来性を放棄することで「世界」の模範的な市民でありえていたグレーゴルは、この頽落に気づいたのだ。だが、現代社会の律法は、人間が自己自身の本来性を保持することをゆるさない。現代社会は、その経済的機構の不可避的な帰結として、人間を「自己疎外」の状態におとしいれた。人間を社会という巨大なメカニズムのなかのたんにひとつの歯車たらしめることによって、人間を徹底的に機能化し、抽象化し、非人間化してしまった。人間とは、すでに1個の歯車、職業という形で受けもたされているひとつの機能にすぎない。

前田敬作「訳者解説」カフカ『城』625頁(新潮文庫、昭和46年)